三原山大噴火で島民1万人避難!秋田壽の脱出作戦とは?人影や現在は?戦後重大事件の新事実2018

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こんにちは、ももあぼです。

12月25日放送の

戦後重大事件の新事実2018

三原山大噴火…1万人の全島避難!

史上初の脱出作戦!

と、いうことで

どのようにして島民が脱出したのかたまとめてみました。

三原山はどこにあるの?

三原山大噴火(Wikiより)

三原山(みはらやま)は、東京都大島町の伊豆大島にある火山です。

伊豆大島という名前の通り、伊豆諸島で一番大きな島です。

東京都で、車は品川ナンバーになるそうです。

伊豆大島では約2万年前から現在まで、

100年ないし200年毎に合計100回前後の大噴火が起きたと考えられています。

古くから島民は噴火を御神火、火山を御神火様と呼び敬ってきたそうです。

名前の「三原」は、出産のように溶岩や土石流を噴出することから

子宮や体内を表す「御腹(みはら)」から来ているとされています。

三原山大噴火の概要

三原山(Instagramより)

伊豆大島にある三原山が1986年に大噴火を起こしました。

11月15日に噴火したものの小康状態でしたが

11月21日に再び大噴火を起こしました。

この噴火によって流れ出した溶岩は

島で最も人口の多い元町に迫っていました。

そのため全島民と観光客1万人の島外避難を決定しました。

1万人が避難した三原山大噴火

1986年11月15日

噴火は、山頂の竪坑状火孔で始まりました。

その噴火を見ようと5000人を超える観光客が押し寄せました。

大島椿も有名ですが、観光も大きな産業でした。

観光客でにぎわう島に

島民をはじめ、役所も喜んだと言われています。

噴火は一旦小康状態となったため

立ち入り禁止区域に指定されて営業できなくなった商店は

営業許可を求めて町役場に陳情に訪れたほどです。

そして、もっと火口近くまで観光客を案内できるよう

検討していた会議終了後の11月21日の午後4時15分ごろ。

突然の大音響とともに、大きな地震が島を襲いました。

カルデラ床からの割れ目噴火が発生したのです。

地表の割れ目を火口として起きる噴火を割れ目噴火といいます。

大島では、1キロにも及ぶ割れ目が生じました。

次々に溶岩が噴き出し、

噴火の高さは1500m、噴煙は16000mの高さにも及んだそうです。

揺れと噴火を前に大島町役場は直ちに対策本部を設置しました。

対策本部の本部長には当時の植村秀正大島町長により、

町助役の秋田壽さんが指名されました。

対策本部長・秋田壽助役

秋田さんは、大島に生まれ

30年間役所に勤めてきました。

そして、1957年(昭和32年)の噴火を知る

数少ない現役職員の一人でした。

1957年の噴火そのものは中規模の噴火ではありましたが

火山弾によって1人が死亡、53人が怪我をしました。

この時、大島町役場の避難指示の対応が遅かったとして

激しく非難されたのだそうです。

秋田さんは、当時、役員のひとりとして

島民の避難誘導にあたっていました。

対策本部長となった秋田さんは、

火山の専門家や東京都の役人、

大島の警察署長、消防団の団長、

さらに島の交通網を握る東海汽船の支店長を呼男たちを呼びました。

今回の大噴火で、秋田さんが最も恐れたのは、

1957年(昭和32年)の犠牲者を生んだ火山弾です。

火山弾とは、火口から飛び散ったマグマが固まってでき、

大きいもので重さ50kg以上にもなるそうです。

こんな大きな火山弾が当たったら、ひとたまりもありません。

火山弾は、火口から風にのって飛びます。

この日の風は、泉津に向かって強く吹いており、

秋田さんは、泉津の住民に避難命令を出しました。

泉津集落の住民の3人に1人は65歳以上という、そのお年寄りが多い地域。

短時間で避難しなければなりませんが、

噴火による轟音と激しい地震のため、

腰を抜かし動けなくなっていたり避難を拒む老人もいたそうです。

そこは、消防団の若者50人によって

家を回り、お年寄りをおぶって避難させたそうです。

島民脱出作戦の決断

午後5時46分には、三原山の頂上の火口だけではく

外輪山の外側の山の中腹からも割れ目噴火が始まりました。

新たに11もの噴火口が開いたのです。

そして、最初の噴火から2時間後の6時8分

島で一番大きい3000人が住む元町集落の方角へ溶岩が流れ出しました。

噴火口が山すそまで広がったのは、500年ぶりのことでした。

大島には、40もの噴火口が確認されています。

もし噴火口が一斉に火を噴いたら、島内に逃げる場所はなく

島民は溶岩に飲み込まれるか、11月の海に飛び込むしかありませんでした。

秋田さんは、植村秀正町長に全島民脱出の決断を迫りました。

町長も即断、こうして午後10時50分、1万人の島民脱出作戦が始まりました。

秋田さんの命を受けて東海汽船の重久和夫支店長は、

本土と島を往復する会社の船だけでなく、海上保安庁などに応援を求め続けました。

東海汽船の定期船に乗船できるのは、約400人程。

圧倒的に足りなかったのです。

こうして、午後7時ごろ

大島には、海上自衛隊や海上保安庁の護衛艦や巡視船

近隣の島々からの漁船まで、大小30隻以上の船が集まりました。

護衛艦や巡視船の派遣は、

時の第1次中曽根内閣の政治決断によるもので

国土庁の遅々として進まない対策会議に業を煮やして

後藤田正晴官房長官が筆頭となり官邸主導で指揮を執ったものでした。

東海汽船もまた

当時東京湾にいたすべての所有船に事情を話し、大島に向かわせています。

一方島内では、停電による住民のパニックを防ぐために

地震で壊れてしまった発電所の発電機の交換作業をし、

7人の職員たちが70度の熱湯が噴き出す中、24個のボルトを締めました。

全島民脱出を前に

三原山

http://www.izu-oshima.or.jp/work/map/index.html

元町港では、島民や観光客が

船に乗り、次々と脱出していきました。

秋田さんの指揮の元、伊豆大島の全島民は

翌朝には脱出できるという目処が立っていました。

しかし、港に残る島民が約1200人といったところで

溶岩流が方向を変え、元町まで300メートルほどにまで迫っているという報告を受けます。

溶岩流が元町港に着くまでに

1200人を船に乗せてしまうことはできません。

波浮港へ

秋田さんは、波浮港から島民を船に乗せる決断をします。

波浮港は、元町から15km離れた場所にあり

そこに辿り着くには、切り立った海岸沿いの細い道が続き、落石の危険もありました。

さらに、大昔大噴火を起こしたことがあり、不安もありました。

移動には、東海汽船の路線バスを使います。

元町港に残っていた38人の運転手が集められ、計画が伝えられました。

秋田さんは、「自分も避難したかったらしてもいい」と言いましたが

妻子がいた運転手がいたにもかかわらず

38台のバスが波浮港に向けて出発しました。

しかし、最後のバスが元町港を出た後、波浮の海の異変が知らされました。

海面が変色したのだそうです。

これは、噴火の起こる予兆でした。

高温のマグマが海水に触れて起こる、水蒸気爆発の危険があったのです。

その報告を知らせる手段は秋田さんにありませんでした。

移動するバスには無線がなかったからです。

秋田さんは

波浮港には、水蒸気爆発の危険があり

元町港には、溶岩流の接近の危険があったため

すぐに決断することができませんでした。

対策本部には、重い空気が流れました。

再び元町港へ

そのとき、元町に向かって流れている

溶岩流の速度が落ちたという報告が入りました。

秋田さんは、波浮港に向かわせたバスを

再び元町港に戻るよう連絡をしました。

そして、それと同時に

波浮港には、島の方々から逃げてきた住民1400人が集まっており

元町港から乗せてきた乗客と合わせて、全員を運ぶには、

2回往復しなければならないことが運転手に伝えられました。

波浮港は、いつ水蒸気爆発が起こるかわからない状態ではありましたが

全てのバスが2往復しておかげで、

波浮港にいた島民は全員元町港に運ばれ、脱出しました。

島に残るという決断

最後の船が接岸する、午前4時22分。

全員が脱出の準備を進めていたとき、

東京電力の本部から連絡が入り、

「最低限の所員を残してほしい」と言われたそうです。

発電機は、船を桟橋につける時の明りになるため、付けておく必要がありました。

しかし、無人では発電機が暴走して大爆発する可能性があるということでした。

所長の米本さんは、

「自分が残るから、あと2人残ってほしい」と言って頭を下げたそうです。

恐る恐る顔を上げた米本さんは、そこで6人の部下が全員手を上げている姿を目にします。

結局、年長者から2人、米本さんは選びました。

最後の船には、東海汽船の重久さん、運転手の方々や

発電所の所員、対策本部のメンバーが乗り込みました。

しかし、秋田さんだけ船を降りてきたのです。

秋田さんには、島民が戻ってくるまで島を守りたいという気持ちがあったのかもしれません。

こうして、611人を乗せた船は出航。

1万226人の方が島から脱出しました。

帰島

島民は、東京都内や静岡県におよそ1ヶ月間避難しました。

一方で東京電力の職員3人と秋田さんは、島にとどまり続けました。

約1カ月が過ぎた頃、島民が返ってくる際には埠頭で出迎えたそうです。

島外避難指示が正式に解除されたのは12月20日。

火口周辺は1996年11月に解除されるまで立ち入り禁止でした。

三原山大噴火(Instagramより)
また、山頂の三原神社が被災しなかったことから、大島の七不思議に数えられています。

三原山大噴火の謎の人影とは?

三原山大噴火を伝える報道の中で

噴火口付近の映像に、人影が映っており

それが話題になり、衝撃映像特番でも取り上げられました。

長年、世界でも有名な火山学者・クラフト夫婦ではないか

という説が強かったのですが

クラフト夫婦は、1991年の雲仙普賢岳(長崎)で亡くなっています。

しかし、後にその人影は

島根県在住の民間カメラマン青木章さんであることが

本人の証言からわかりました。

火口付近をビニール傘を指して歩いていたため透けて見えたのだそうです。

全島民避難後に、小屋に潜んでいるのを発見され保護されたそうで

地元の消防団にはむちゃくちゃ叱られたのだとか。

現在の三原山は?

現在の三原山周辺は、トレッキングコースとなっています。

自然に囲まれた中で、蒸気が出ている部分もあり

まるで火星(違う世界)に来たようだと

隠れたインスタ映えスポットにもなっています。

展望台からは、富士山も見えるそうですよ。



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