武田修宏(サッカー)の彼女や結婚は?年齢や偏差値、南米移籍の理由は?誰だって波乱爆笑

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こんにちは、ももあぼです。

4月28日の誰だって波乱爆笑では、武田修宏さんの生い立ちについて放送されていました。

武田修宏さんといえば、独身貴族で六本木で飲み歩いているような華やかなイメージが強いのですが、意外に苦労されている半生をまとめてみました。

武田修宏Wikiプロフィール!

武田修宏(たけだ のぶひろ)さんは、元サッカー選手です。

たけだ(番組より)

生年月日:1967年5月10日(51歳)

出身地:静岡県浜松市

身長:177cm

体重:75キロ

視力は両目1.5なのは、サッカーのおかげだと考えているようです。

老眼は少し始まっているようです。

武田修宏の彼女や結婚を考えたことは?

武田修宏さんは、多くの女性との噂がありましたが未だに独身です。

番組では、現在彼女はいないこと、結婚のピッチに立ったこともないことを話されていました。

結婚願望については、幸せな結婚ならした方がいいけれども、幸せでない結婚ならしない方がいいと思っているため、焦ってはいないそうです。

ちなみに、幸せな結婚については、独身だからわからないそうです。

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武田修宏の生い立ち

武田家の次男として生まれた武田修宏さん。

父親はタクシーの運転手、母親は看護師をしていました。

両親とお兄さん、おばあさんの5人家族だったそうです。

父親は派手好きでギャンブルが好きだったため、武田家には借金があり、毎日のように借金取りが来ていました。

両親は共働きだったため、お兄さんと借金取りの対応をしていたそうです。

お母さんからは

必ず自分の行動に責任をとりなさい。

人に迷惑をかけない。

苦しくても悲しくてもいつも笑顔でいなさい。

と、言われて育ったため貧しいけれどいつも笑顔でいた武田修宏さん。

母親が夜勤で忙しく、誕生日を祝うような家庭ではなかったようで、武田さんは誕生日に醤油ぶっかけごはんを食べたようです。

浜松市立佐藤小学校では、1年生でサッカークラブに所属。

サッカーチームの合宿に行った際に、みんなでお風呂に入るときに、リンスが後だということに気が付いたのだそうです。

この頃から静岡県内では、天才サッカー少年と呼ばれていました。

浜松市立丸塚中学校2年時には、東海選抜に選出され全日本選抜中学生サッカー大会で優勝、3年時には日本ジュニアユース代表に選出され、シンガポールで開催されたライオンシティカップに出場し得点王となっています。

今とは違って、女性が苦手だったのだそうです。

実は「彼女を作るとサッカーが下手になる」と監督に言われた言葉を信じていたようで、初恋は中学2年生のときだったようです。

当時の彼女は、ソフトボール部のキャプテンの女の子だったようです。

その彼女とは、4年間、高校3年生まで付き合ったのだそうです。

サッカー部キャプテンの武田さんと付き合うということで、周りからは憧れのカップルだったかもしれませんね。

武田修宏の高校は清水東高校!

高校は、サッカーの名門・清水東高校に進学。

清水東高校は、サッカーとしても有名ですが、県内有数の進学校としても有名で、偏差値は70。

武田さんはそこに一般受験で入学しています。

サッカー推薦ではなかったんですね。

中学のときの成績も150人中10番以内に入るほどの成績だったのだとか。

サッカーでは、1年時からセンターフォワードのポジションを獲得すると、全国高等学校サッカー選手権大会静岡県予選では9得点を挙げる活躍で得点王とMVPを獲得。

本大会では5得点を挙げる活躍で準優勝に。そして、大会優秀選手に選ばれ高校選抜の一員としてヨーロッパ遠征に参加しています。

国体には1年時から出場し、1年時と2年時には準優勝、3年時には中山雅史さんらと共に参加し準決勝の三重県選抜戦では7得点を挙げる活躍などで優勝に貢献しました。

しかし、清水東高では3年時に主将を務めたものの、冬の高校選手権予選では準決勝で敗退した。

高校時代はかなりモテたらしく、1年生のときには段ボールにいっぱいのファンレターがいくつも届いたそうです。

また、「武田が来ると風がやむ」と言われていたようで、武田さんを囲むファンの多さ、人気の高さがうかがえる言葉ですね。

ただ、その人気の高さゆえに、下宿先に「調子にのるな」と嫌がらせの電話がかかってきたことや、彼女と歩いていた時に「なんでブスと歩いているんだ」と言われたことも。

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高校卒業後の1986年には、地元の静岡第一テレビに勤めます。

静岡第一テレビ 東京支社 総務部に所属していたようで、営業マンとして、サラリーマン生活をしていたそうです。

当時はスポンサーなどなかったため、サッカー推薦で大学進学が当たり前でした。

しかし、日本代表を目指すのに、大学進学はもったいないと考えた武田さんは、日本テレビ系列(読売新聞系列)でもある静岡第一テレビに就職し、読売サッカークラブに所属しました。

そのため、午前中は出向社員として銀座勤務で、午後からは読売ランドで練習という毎日だったそうです。

当時の給料は、手取りで13万円だったそうです。

1993年Jリーグ開幕

1993年にJリーグが開幕したことにより、日本に空前のサッカーバブルが訪れます。

プロになった武田さんの生活は劇的に変わりました。

当時人気絶頂のヴェルディ川崎に所属し、大活躍していた武田修宏さん。

テレビ平均視聴率は、最高で32.4%。

年間観客入場者数は、600万人以上。

そして、当時のJリーガーの平均年俸は、約2000万円でした。

人気絶頂時の最高年俸は、カズさんは2億4000万、ラモスさんは1億5000万円、武田さんは1億2000万円だったそうです。

サラリーマン時代、月に13万円だった武田さんですが、8年後27歳で年俸1億2000万円(月収1000万円)だなんて、なんとも夢のある話ですね。

そして、女性誌CanCanでは、松下由樹さんと2ショットで表紙を飾ったことやファッション雑誌(JJ、CanCan)の連載をやっていたこともあったそうです。

また、当時は「モデルのこの子と対談したい」と言ったら、次の日には対談が組まれていたり、こちらから指名して、会いたい人に会えたくらいおかしな世界だったのだそうです。

1994年小学生以下男子に聞く大人になったらなりたいもの(職業)アンケートでは、サッカー選手が野球選手を抜いて1位。

一気に憧れの職業になりました。

華やかなJリーガー生活の反面、プロ契約の規定は厳しかったそうで、全試合出場で、試合給100%。

ベンチだと1/4。

メンバーに入れないと試合給が0、負けると試合給0のときもあったそうです。

レッドカードでは罰金。

基本1年契約なので、1年でクビになる人もたくさんいたのだそう。

18歳からプロの意識が強かったので、月曜から金曜は一切飲まない、金曜日の夜に遊びに行く生活をしていたため、今でも平日は飲まないのだそうです。

毎日トレーニングで5キロ以上走り、血液検査(乳酸値)もあったため、飲んだらすぐバレてしまうのだそうです。

武田修宏のパラグアイ移籍の理由は?

武田修宏さんが、33歳の時にパラグアイに移籍したとき、人生最大の金銭トラブルに遭っていました。

武田さんは、全財産1億3000万円を叔父に預けたのだそうです。

叔父さんは、銀行では利息がなかなかつかないため、株に投資していたのだそうです。

武田さんが戦力外になった時に、叔父さんに貯金どうなってるの?と聞いたところ、0だったのだそうです。

33歳で、サッカーでは戦力外通告、全財産は0円になってしまった武田さん。

この2つが重なって、人間不信に陥り、南米パラグアイに移籍したのだそうです。

「みんなチャラチャラしてるとかお金あるだろとか言っているけど、ホントはなかったんですよ」と振り返るとともに

「世界で1番キレイなのは、ブラジルの女性」と武田さんらしい一言も。

ただ、その3か月後に監督が交代し、退団しています。

2001年、川崎から本拠地を移転した東京ヴェルディ1969へ3度目の復帰。

チームでの活躍と日本代表復帰を目指しましたたが、現役引退。

現在は、バラエティ番組への出演のみならず、サッカーの解説やサッカー教室と大活躍されているそうです。

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武田修宏まとめ

武田修宏さんのイメージは、独身貴族という感じで多くの女性と飲み歩いているイメージだったのですが、この番組でガラッとイメージが変わりました。

幼いころ、武田さんの家は貧乏で借金取りが家によく来ていたそうです。

中学の時に付き合った彼女とは、大人気になっても4年間の交際。

そして、月収13万のサラリーマン生活。

1993年のJリーグ開幕で一気に人生が変わりました。

プロの厳しい契約で貯めたお金は身内に使われてしまい、一文無しに。

失意のパラグアイに移籍。。。

華やかでチャラいのはテレビ向けで、本当は偏差値も高くて、努力家な方なんだなぁと思いました。

この番組を見てから、かなり好感度が上がりました。

これからも頑張ってほしいです。



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