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佐藤昭子は田中角栄の愛人?経歴や馴れ初め、結婚や子供は?1番だけが知っている

こんにちは、ももあぼです。

3月4日放送の1番だけが知っているでは、

政治家・田中角栄を総理大臣にしたのは、1人の女性。

100億円もの大金を動かした女性とは?ということで

田中角栄氏の秘書であり愛人、佐藤昭(昭子)さんについてまとめてみました。

佐藤昭(昭子)プロフィール

佐藤 昭子(さとう あきこ)さんは、田中角栄の秘書を務め、その愛人であったと云われています。

(番組CMより)

旧名:佐藤 昭(さとう あき)

生年月日:1928年8月5日

没年月日:2011年3月11日

出身地:新潟県刈羽郡枇杷島村(現・柏崎市)

身長:157cm

スリーサイズ:B97、W58、H95

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経歴

雑貨店を営む両親の元、6人兄弟(2男4女)の末っ子として生まれるも、1944年までに両親・兄弟とは死別(病死)しています。

(長姉だけは、昭の生まれる前に亡くなっています)

16歳で天涯孤独になってしまったんですね。

新潟県立柏崎高等女学校では級長を務め、陸上部の短距離走の選手でした。

数学の先生になりたいと、東京女子専門学校(現・東京家政大学)に進学するも、戦災と戦後の混乱の中で中退。

1946年(昭和21年)衆院選時に選挙活動をしていた田中角栄氏と出会い、選挙活動を手伝います。

そして、田中氏の応援演説を行なった男性と結婚。息子を出産するも、他に女の人ができて離婚してしまいます。

キャバレー勤務を経て、1952年(昭和27年)に田中氏の秘書となり、田中氏の政治団体

越山会の統括責任者などの要職を歴任します。

この間に、キャバレーの客であった東京電力社員の男性と二度目の結婚・離婚を経験し、1957年に田中氏の娘・敦子さんを出産しています。

佐藤昭が田中角栄と出会ったきっかけや馴れ初めは?

田中角栄氏との出会いは、1946年。

田中角栄氏は、佐藤昭さんの10歳年上で、27歳の若き代議士でした。

そして既に、年間施工実績全国50位以内に入る「田中土建工業」の社長で、結婚していました。

1946年2月23日、佐藤昭さんの母の命日に、戦後初めての衆院選挙に出馬した田中角栄氏が、選挙区である柏崎の昭の生家を訪ねてきて、初めて出会ったのだそうです。

当時17歳で、お茶を出した佐藤さんは、「ちょっとちょびひげを生やしているから50歳くらいの人」かと思ったのだそう。

選挙の戸別訪問は禁止なのですが、第二次世界大戦終了直後、一時規制緩和されていたそうです。

ちなみに、佐藤昭さんが選挙活動を手伝った、1946年4月の選挙では落選しています。

その後、佐藤昭さんは地元で知り合った最初の夫と上京するも、離婚。

1952年2月23日、再び田中角栄氏が訪ねてきて、佐藤さんの境遇を聞いて「俺の秘書にならないか」と誘ったのだそうです。

いやいや、離婚して間もなくのタイミングで、東京で出会うって…そんな偶然ってあるのでしょうか。

前夫も政治関係の人だったようですし、実は耳に入っていたのかもしれません。

それからは、出会いも再会も2月23日だったことにちなんで、毎年その日には、二人だけの食事に誘ってくれたのだそうです。

田中角栄氏は、驚異的な記憶力の持ち主で、有権者に逢うと即座に名前、家族の年齢、悩み、仕事などを瞬時に思い出していたのは、よく知られている話です。

佐藤昭さんのこともしっかり覚えていたのでしょう。

もしかしたら、偶然同じ日なのも、その記憶力の良さで偶然ではなかったのかもしれませんね。

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田中角栄の女性関係。妻や子供、愛人は?

田中角栄氏には、奥さんの他に愛人が2人いたとされています。

(愛人の数は5人とも10人とも言われています)

妻・はな とは、1942年に結婚。

8歳年上で、連れ子もいましたが、見染められて結婚したそうです。

はな夫人の間には、長男(4、5歳で死亡)、長女・眞紀子(第131代外務大臣)がいました。

はな夫人は病弱だったようで、眞紀子さんがファーストレディーの役目を代行しました。

神楽坂の芸子だった、辻和子さんとの間には、2人の男の子。

(娘もいましたが1歳になる前に亡くなっています)

戦後まもなく社長時代に、料亭で遊んだ時に知り合ったのだそう。

田中氏は、和子さんを身請けし、神楽坂に邸宅を与えて、よく夕飯を食べていたそうです。

2人の子供は認知され、田中姓を名乗っています。

佐藤昭の娘・敦子さんは、二番目の夫の籍に入っているため、認知はされていませんが、とても可愛がっていたそうです。

しかし、その境遇に苦しみ、自殺未遂を繰り返していたそうです。

田中角栄氏は、複数の家庭を持っていましたが、どの女性も境遇があまり良くないのは時代だからでしょうか…。

そして、どの家にも十分なお金と出来る限りの愛情を注いでいたように思えます。

また、どんなに遅くなっても愛人宅には泊まらず、本宅に帰るという本妻を立てることも忘れなかったそうです。

佐藤昭は越山会の女王

越山会は、田中角栄氏の個人事務所にありました。

佐藤昭さんは、最盛期には会員数9万5千人にのぼる政治団体・越山会の統括責任で経理の一切を担当しており、「越山会の女王」と呼ばれていました。

中には野党支持者も入会していたのだそうです。

田中事務所のママ」とも呼ばれていたようですが、これは1961年ごろからで、佐藤さんの娘・敦子が「ママ」と事務所に電話をかけてきたからなのだそう。

仕事が忙しいお母さんの声が聞きたかったんでしょうね。

最初は、電話番の人も「佐藤さーん」と呼んでいたそうなのですが、そのうち「ママー」と呼ぶことで、敦子ちゃんからの電話だと伝えていたら、周りも「ママ」と呼ぶようになったのだそうです。

なんだかほほえましい話です。

自由民主党木曜クラブ(田中派)への影響力も強大で、かつて田中派の中堅・若手議員であった橋本龍太郎氏、小渕恵三氏、羽田孜氏、小沢一郎氏らにとっては政界における姉貴分であり、「ママ」と呼ばれていたそうです。

また、政治資金を(全てではない)管理していたことから、金庫番として、組閣や選挙にも口を出すなどの影響力を持っていたのだそうです。

そして、田中角栄氏が第64・65代の内閣総理大臣を務めたときも「影のファーストレディー」として、陰に日向に支え続けました。

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佐藤昭子の晩年

1979年に本名を「昭」から「昭子」に改名しました。

どうやらキャバレーに勤めていた過去は、消し去りたい過去だったようで、

「新聞から週刊誌まで私を追いかけまわし、佐藤昭、佐藤昭と呼び捨てにしたことに対してのささやかなレジスタンスのつもりだった」と改名について説明しています。

1985年、田中角栄氏が脳梗塞で倒れると、娘の田中眞紀子氏によって事務所は閉鎖され、田中事務所を解雇されました。

原因は眞紀子氏と佐藤さんの根深い対立関係にあったとされています。

確かに、ファーストレディーは2人もいらないって話かもしれません。

眞紀子さんは、佐藤さんに対しては秘書だと思って接してきたし、娘の敦子さんも可愛がっていたようなので、裏切られた気持ちも強いのかもしれませんね。

解雇後は自ら政治団体「政経調査会」を主宰し活動し、専務理事兼会計責任者をして、影響力を持ち続けました。

しかし、眞紀子氏に引き取られた田中角栄氏は、ずっと目白の自宅にいるため一切会えなくなりました。

そのため角栄氏は、佐藤さんの自宅に2回ほど電話をかけているそうです。

ただ、何か話そうとしますが、「うっ」としか言えず、言葉にならなかったのだそう。

1993年に死去した時も対面はおろか、通夜にも葬式にも行けなかったそうです。

(これは辻和子さんもご子息も同じで、長兄の京さんだけが一般弔問客に混じって焼香を許されました)

一時は巨額の資産を所有していた佐藤昭子さんでしたが、資産を預けていた高橋治則氏が1995年に逮捕されてからは、その資産の大半を失い、影響力も低下しました。

2008年に肺がんと診断され、2010年3月11日に亡くなりました。81歳でした

佐藤昭(昭子)まとめ

佐藤 昭子(さとう あきこ)さんは、田中角栄氏の秘書を務め、その愛人であったと言われています。

田中角栄氏に助言し、組閣などの人事や選挙にも口を出せるくらいの力を持っていたとされています。

今回番組では、佐藤昭子さんの、あまり表に出ない秘書の仕事っぷりについて触れられると思うので、楽しみです。

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